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塩田町歴史散歩
塩田町歴史散歩
当家出身の井上米蔵氏(横浜在住)寄稿文・・・・・2011年11月8日
塩田町歴史散歩 (国重要伝統的建造物群保存地区 佐賀県嬉野市塩田町)

家には家の、町には町の歴史有り
家は町を作り 町は家を作る

自己流ではありますが、ここ塩田町の歴史散歩に出かけます。よろしければお付き合いください。

私、塩田町中町 米屋こと江口家8代目 江口愛二の三男として1942年(昭和17年)に誕生しました。まずはこの条件で塩田町の歴史にアプローチしていこうと思います。

幼少年時代の記憶をたどりますと、朝鮮とか満州とか台湾とかを非常に身近に感じて過ごしていました。反面、東京や大阪などを身近に感じたことはなかったように思います。

それは、一つには 父が朝鮮の釜山で、自ら設計、建設したタイル工場を終戦間際まで
経営したこと、母の父は満州鉄道に任を得ていたため、母は幼少時代を満州で過ごした
こと、台湾で商売を繰り広げた親類一家、朝鮮人の子供を養子にしていた親戚 等々様々な直接的な関わりによるものでありました。
このような私自身の例でみられるように 九州北部、西部に位置する福岡、佐賀、長崎は半島および大陸との直接的な人的、物的関わりを歴史に織りなしています。

そこで、邪馬台国に想いを馳せない訳にはいきません。なぜなら、この地域がまさにそれ または それの一角で有る可能性が高いからであります。しかも1980年代になって
佐賀市の北部 神埼郡に弥生時代の大規模遺跡が発掘され、それがなんと “魏志倭人伝”に出てくる邪馬台国の跡ではないかと新たな脚光を浴びることになったことは記憶に新しいところです。その遺跡は名付けて
“吉野ヶ里遺跡”
で、ありますが、邪馬台国九州説にとって強力な援軍であることには今でも変わり有りません。
ここなら塩田町から古代の人達が歩いたとして、日が落ちる前までには到達できる近さであり、塩田町もその影響下にあったとして不思議ではないでしょう。

あまた有る邪馬台国研究の中で私が最も惹かれるのは松本清張のそれであります。
以下、私なりの引用をお許しください。


古代の何時の頃から国という形、ないしは意識が出来始めたのか確かなものはないが、
弥生時代の後期、即ち2〜3世紀のこの地域は半島の南部と九州の北部をもって同一生活圏を形成し、交易がなされていたのではないかという推理がたてられています。
即ち、海峡はあっても、互いの往来の邪魔になりませんでした。間に散らばっている壱岐、対馬、五島列島、済州島、その他、半島沿岸に沢山集まっている島々が“脚”の連絡点であり、“橋渡し”でありました。
舟のほうが陸上の徒歩より便利だった頃であります。いわゆる多島海文明が、この海、
地域につくりだされていました。

ここで一寸余談ですが、これらの島々の中で対馬には 江口家は 七代 江口平の代まで陶磁器の原石を産する山を所有していました。私は物心ついたばかりの頃だったので、
山の管理人がスルメをはじめいろいろな魚介類を持って訪ねて来ていたことぐらいしか、はっきりとしたことは思い出すことが出来ません。しかしそれにも拘らず、話し好きだったツルおばあちゃんから、“対州からは のう、朝鮮が見えるけん、もうちょっと大きくなったら連れて行って貰わんばの”というようなことを言われて、対州(対馬のことを江口家では対州と呼んでいた)に興味を持ったことをおぼろげに覚えています。とにかく
魏志倭人伝に記述されているように、対州は、半島および大陸と 九州をつなぐ中継点でありますが、私の中では、このように身近にある背景を踏まえて、三段論法といいますか、塩田町も古代史の蚊帳の中に有った可能性が高いのでは?、、、?と感覚的に察している
次第です。

閑話休題

三世紀初頭 女王、卑弥呼、の邪馬台国がこの地域を治めました。大小20数部族(国)が従いました。
“卑弥呼の居るところは、宮室、楼観、城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す”、などと描写されています。
邪馬台国に興味のある人なら、これ 吉野ヶ里そのものではないか、と重ね合わせるでしょうが、ことはそんなに単純なものではないようであります。
実証と理論の両面から迫るのを旨とする松本清張氏がもう少し長生きしていたら、結論に近付けたのかもしれませんが、九州説、近畿説、どちらとも妙に大人しくなってしまって
一時の昂奮はどこへやら、という感じで情けないことになっています。

ともあれ、続けましょう。
卑弥呼は鬼道によって吉凶を占う巫女でありました。良く的中するという評判によって
諸部族の合議のもと女王に祭り上げられました。部族同士の争いを止めさせ、一致団結させ、勢力を増強する南部九州の“狗奴(くな)国”からの脅威に備えさせるための指令を発しました。狗奴国は今の熊本県の地域であります。
狗奴国との戦闘の最前線は地理的にどの辺になるかを推理すれば、吉野ヶ里地域が一番に挙げられるとして、それは極く自然であります。この地域は北部九州と南部九州の分水嶺を成しているからです。
とすれば、女王国邪馬台国が後に狗奴国に敗れるという史実が物語るものは、邪馬台国は吉野ヶ里地域に有ったという可能性を補強する以外の何物でもないということでしょう。

しかし、狗奴国に敗れたという理由だけでなく、謎の四世紀にかけて邪馬台国が倭の国の主舞台としての役割を果たした時代の幕は閉じ、拡大する古代日本は近畿地域に中心が
移り(大和の国)りました。即ち、奈良を拠点とした古墳時代が本格的な皇室の始まりと共にスタート、その流れの中で北部九州は近畿に対し主従の“従”の立場に様変わりすることとなってしまいました。

その象徴的な動きですが、神功皇后の征西 ―主として熊襲(狗奴国)平定― と半島
侵攻、そしてその統治のため、北部、西部九州の部族たちは卑弥呼の時代さながら軍事的、経済的協力を強制されました。
隣町、嬉野(うれしの)温泉の名前は、そうした折、神功皇后が当地を訪れた際の逸話に由来していると伝えられています。すなわち、
或る時、傷ついた白鶴を目にされた。その白鶴が河原に舞い降りて湯浴びをした。傷が癒えたのか白鶴は元気に飛び立って行った。心配されていた皇后は嬉しさのあまり、
“うれしいの〜(嬉野)”と発せられた。

さて、私の妻は長崎県大村市出身であります。彼是四十五年連れだってきましたが。彼女がここ塩田を訪れたのは十回程度です。そのせいで彼女の観察には新鮮さが有ります。
塩田の町並みは端から端まで、歩いて二十分ほどですが、その間に四つものお寺が有ることに気付いて、どうしてなのだろうと疑問を呈しました。一昔前と違って人通りのない現在の町並みからすると当然の疑問というべきなのかもしれませんが、私のような塩田人
には、言われてみればそうだなという感じです。
それらのお寺についてですが、一番古いのは、708年建立の“常在寺”です。
行基菩薩作といわれる木製の仁王様も祀られています。つまり、この町は奈良時代に既に確たる歴史の証しを築いていたということであります。これが妻の疑問に対する回答の
一部にはなるかと思います。
残りの三つは古い順に、生蓮寺(1391年、室町時代)、立伝寺(1584年、安土桃山時代)、本応寺(1586年、安土桃山時代)です。

これから推量すれば、信長、秀吉が天下統一を図っている頃、この町は寺の建立を必要とするほど発展を遂げていたのでしょう。

そこで、町が興り、発展するという観点からこの町を見てみたいと思います。

文明発祥の地には全て川が有ります。 --エジプト(ナイル)、メソポタミア(チグリス、ユーフラテス)、インド(インダス)、中国(黄河)--。

この町にも有明海に注ぐ塩田川があります。
源流は長崎県との県境の高さ約600メートルの虚空蔵山及び周辺の山々で、山裾を下りて嬉野温泉辺りでは幅20〜40メートルとなり、途中で肥前小富士と呼ばれる唐泉山を
川面に映したりしながら15キロメートル位流れて塩田の町並みに到達します。
塩田橋の下を潜ると、左に大きくU−字を描きながら90度近く方向を変え、更に7キロメートル位流れて有明海に注ぎます。
日本一干満の差が大きい有明海の満ち潮は塩田橋の所まで届き、万潮の時のU−字部分は水泳プールのようになります。(ただし、この部分の描写は昭和の終わり頃までのことで、洪水対策のためL―字に改造された以後は、川の流れはU―字部分を通らなくなりました)。
尚、後に述べますがこの満ち潮の間は80トンクラスの帆船が航行可能で物資運搬航路としての重要な役割を担った時代がありました。
それはさておき、私の少年時代この川はダクマンショウと呼んでいた15センチ位のエビ、鮒、ハヤ、ハゼ、ウナギ、蟹、潮流に乗って来るサヨリ、ムツゴロウの稚魚等の天国でありましたし、初夏を迎える頃には船で潮干狩りのため有明海へ往復し、アサリ等の貝を採って来ました。
嬉野から塩田までの流域の両側の土は川からの養分供給の恩恵で肥沃な田畑を形成し、
山手はみかん、枇杷、柿、更にはお茶を産する等々、つまり、昔、昔、古代の昔から自給自足が叶う条件が整い、人々が定住し易い環境であったのだろうと推量されます。

さて、
天下統一がなった江戸期になるとこの地域には“戦いより産業”の気運が高まります。
その下地となったのは、秀吉の半島出兵の拠点が玄界灘に面した名護屋に置かれたことです。加藤清正はじめ九州の部隊が重きをなしたことによって得られた副産物とでもいうべきものが歴史に転機をもたらしたのです。
たとえば陶磁器産業を例にとれば、
その彼等が帰還する際に、半島の陶工を連れ帰りました。陶工達は手厚いもてなしを受け、焼き物作りを指導することになります。やがて彼等は陶石鉱山を発見(有田の泉山陶石等)し本格的な陶磁器産業を興していきます。肥前の藩主鍋島氏の下での有田焼、
大村藩主大村氏の下での波佐見焼が江戸時代の初期に誕生したのはこうした背景によるものです。
暫くして、有田焼の酒井田柿右衛門が赤絵の技法を開発するに及んで、その後の代々の
努力および藩の支援も相まって18世紀中頃(江戸中期)にはオランダ東インド会社を通じてヨーロッパへ輸出するほどまでに成長を遂げて行きました。
また、その頃、田沼意次が主導する殖産興業の中心的指導者、平賀源内は天草陶石を調査し、“天下無双”の評価を下しました。結果、有田、波佐見等でも天草陶石が採用されるようになっていって、なんと、塩田川が天草からの運搬航路となり、通称“町裏”が河港となりました。同時に川沿いに水車により陶石を粉末にする製陶所が誕生し、有田、波佐見の窯元に納品するというシステムが出来上がっていきました。
このように陶磁器産業の発達に伴って塩田川の役割が倍加したのでありますが、
川を崇める習慣は先に紹介しました、町で一番古いお寺“常在寺”が建立されたとほぼ同じ頃に出発していることが分かります。すなわち、
右大臣藤原不比等の勅命を受けて、水神を祭る塩田町の氏神として、町から約1.5キロの宮の元という部落に”丹生神社“が建立されたのです。これが一の宮(総本社)で、
以下二、三、四,五の宮まで建立され地域の安全と五穀豊穣を神に祈願してまいって
います。(現在の宮司は46代目であられます)
どうでしょうか、少しうがった見方をしますと、水神様が河港を導いたのかもしれません。

朗報といいますか、
2005年(平成17年)にこの町が “嬉野市塩田津”の呼称で
“国重要伝統的建造物群保存地区”に認定されました。

このニュースを知った時、正直、“え〜、大丈夫かな?”と思いました。
しかし、何事も前向きに捉えて行くことが人生を面白く出来る術であると心がけている身として、認定されたことの意義を探す旅、いや旅というと大袈裟なので散歩にでかけたというところですが、散歩の中間地点あたりに相当するこの時点でも結構興味をそそられる歴史に出会えたと感じているところです。

さて、伝統的建造物群の中のひとつ、江口家を訪ねてみましょう。

父、愛二、が晩年になって、先祖の供養のためには歴史を明らかにしておかなければならないと一念発起し、忙しい時間を一カ月位集中的に割いて“江口家代々”の年表を作成したということを団欒の酒の席で聞いたことがありました。添付の資料がそれです。
これによりますと、初代は、始まりが書かれてないので推測になりますが、1700年の前後、そこから1741年までとなります。
この頃というのは鎖国政策が完成した頃ですが、それでも清国やオランダとの通商は長崎を通じてだけは盛んに行われた時代です。小倉から長崎へ通じる長崎街道二十五宿の一つとしての塩田宿は、地の利を得ていました。
即ち江戸時代になって“鍋島藩”がスタートし、その支藩としてこの地区を治める
“蓮池藩”がスタートしましたが、藩は産業振興に力をいれる事が出来ました。特に多大なるご尽力をいただいた蓮池藩初代藩主、鍋島直澄公(1639−1665)を祀るため町並みからそう遠くない所に特別に“吉浦神社”(愛称、“お山さん”)が創建された程です(1680年)。
毎年桜咲く四月五日は“お山さん”を祭る日で、神社に通じる参道の両側には出店が立ち並び、猿回し、蛇使い、手品師、サーカス団、等も繰り出していて大層賑わったものです。
でも今は記憶にのみ存在し続けるお祭りということになってしまいました。

江口家の話に戻って、その屋号は“米屋”となっておりまして塩田津地域の藩米を扱う
任を負っていました。それが初代からかどうかは今のところ明確にできていませんが。

ここで一寸一服しませんか。
お茶でもどうぞ。

お茶と言えば、当地、嬉野、塩田は“嬉野茶”ブランドで日本茶の名産地でもあります。
15世紀半ばに嬉野皿屋谷で中国から移住した人(陶工)が自分たちが飲むために始めたと伝えられています。
お茶にまつわる話としては、
(1)関ヶ原の戦いで豊臣方についた鍋島藩のお家取り潰しを救った西本願寺/園光寺/京都 
のお茶商人上林之人の話、
(2)鎖国時代の中、長崎の女性貿易商によって、ヨーロッパに輸出され、お茶が藩の
財政を助けた話
等があります。
また近時代の話として、江口家親戚が経営する森鉄工(株)が県と共同で1959年に
開発した“森式連続炒葉機”について触れておきましょう。
これは炒葉の“量産”と同時に、連続式であることによって可能になった生葉投入量を
増量することで、茶葉から出る蒸気で“蒸し葉の香味”をも得られるようにしたものです。
宇治茶は勿論おいしいですが、通の者には嬉野茶も全国的に贔屓にされています。お茶が癌予防に効果大などということよりも、何とも言えない“わび、さび”に浸る瞬間の
味わいをこの嬉野茶は楽しませてくれるように、少なくとも私には感じさせてくれます。

閑話休題

さて、5代目平兵衛さんを訪ねましょう。
160年以上前迄(江戸時代の終わり頃迄)遡らなければなりませんが、代表的な商人でありながら知識人でもあった平兵衛さんは18年間にもわたって日記を残してくれているので色々な発見が出来る興味深い訪問になるかもしれません。
尚、日記は古文書読解能力無くして読解は困難で、幸いにして町内出身の松尾喬先生の
博学と懸命の御努力によって一般人の手にも取れるような小冊子を作成して頂いたことでより身近なものに再生されたということを忘れてはなりません。

まず初めに、日記を通読して得た平兵衛さんに対する印象は?と言いますと、
“プロの商人であることは勿論ですが、殿様、御隠居様を支えて藩に尽くし、町内からの求めに対しては物心両面から全力をもって応え、俳句や絵画にも興じる等“葉隠武士”
ならぬ余裕綽々の“葉隠商人”、とでもいうべきものです。
(ここで云う殿様とは蓮池藩主第九代直紀様、御隠居様とは八代直興様のことである)
平兵衛さんの辞世の句

 月と共に 我もこの世の 雲隠れ

なんともはや、“一本参った”と思わず膝をたたきたくなるくらい、とても清々しい
人となりがみてとれるではありませんか。

平兵衛さんが5代目を引き継いだ時は19歳の若さでありました。
幕府においては鎖国政策を150年以上にわたり継続できてはいたものの、唯一の
貿易玄関である長崎を幕府の思う通りに支配することは、もはや時代の流れの中で困難なことになろうとしていました。
ヨーロッパでは、蒸気機関車、蒸気船の発明で産業革命と植民地獲得が加速度的に進み、お隣り中国は長い長い歴史が消えてなくなるかもしれない悪夢のアヘン戦争への道へと
転がりつつありました。
初めての日本地図を作った伊能忠敬は1814,15年に塩田地域も測量しています。
期せずして、開国への備えでもあったことになりますが、平兵衛さん達全国の商人にとっては仕入れ、販売両面から待ちに待ったものであったでしょう。恐らく平兵衛さんのものであったろう地図があったのですが今は行方が分かりません。

幕府による八回目の諸国巡見、結果として最後の巡見となる、がこの地域でなされたのは1839年のことであります。平兵衛さんはこの案内役を勤めています。

興味が湧いてくるのは、このような大役が何故平兵衛さんに与えられたのだろうかということであります。
諸国巡見の目的は幕藩体制の維持のため諸藩の政治、民の暮らし、法令の実行状況などを調査することでありますが、要は諸藩の藩主(お殿様)の評価であります。従って、
お殿様としては、どのような難問がもたらされようとソツなくこなすことの出来る、頼りになる人物を対応に当たらせることになります。平兵衛さんはそのような人物だったということでしょう。
他に案内役で分かっている人では隣村、谷所の俊才小森嘉兵衛さんがおられます。二人は生涯交友を温められた間柄であるということです。

1842年、平兵衛さんは隣村、久間村東山の陶器窯元から助けを求められました。
そこでは天保の大飢饉以来全国を襲った社会不安、そして深まる不景気の影響を受けて、人々は離散し村全体が廃業の危機に陥っていたのです。
窯業には門外漢の身で、果たして資金的な援助だけで十分なのかどうか見当もつかず断っていましたが、話を聞きつけた母の、
“あの人たちは貴方に最後の望みをつないで助けを求めておられるのでしょう。
にもかかわらず逃げているようでは人の道を歩んでいるとは申せません”
との言葉に感涙し、即、心を改めて支援する決断をしました。

決断はしたものの、門外漢の身には何から手をつけていくべきか戸惑いが有ります。
何か未経験のものに取り組む時というのは、誰しも行動の一つ一つをそれでいいのか注意深く確かめながら進んで行くと思いますが、平兵衛さんはそれらを日記にし始めました。
そう、ここがその後18年間に及ぶ、名付けて“天相日記”の始まりです。

さあ、再興へ向けてスイッチオンです。
中々偉いなあと思うのはまず窯業の仕組みを勉強し、原材料の仕入れ、製品の販路等を
研究しながら人間関係を開拓していったところです。
他者はともかく自分は全く焦りなし。
陶器はその性格上生産者側に趣味的色彩が入り込みやすく、商売として成功を収める為には一方でプロダクトアウト、他方でマーケットインの両刀使いが出来る営業の腕が決め手になります。
商人としては超一流の平兵衛さんのところへ伊万里の商人が度々訪れるようになったのは平兵衛さんの顔がなせたことでもあるでしょうが、恐らく販路を確実にしようという戦略を立てられたのでしょう。
このようにして短期間の間に再興が果たせることになりますが、あの時代に販売が、遠く
新潟方面まで及んでいて使用人が出張したりしていることは大変驚きです。
恐らく陶器製の火鉢が寒い地域で売れたのではないかと想像しています。私が幼年時代のことですが来客の多い江口家には何十個という洒落た絵付けの火鉢が有りました。今では無用の長物なので全て処分されている筈です。

ところで、この頃というのは、やがて日本の新しい歴史の舞台に登場する人物達が産声をあげている時です。
薩摩藩 西郷隆盛 (1828)
薩摩藩 大久保利通(1830)
土佐藩 坂本竜馬 (1836)
土佐藩 板垣退助 (1837)
中津藩 福沢諭吉 (1835)
長州藩 伊藤博文 (1841)
肥前藩 江藤新平 (1834)
肥前藩 大隈重信 (1838)
等々

しかし、これらの人物が如何に傑出した才覚に恵まれていたにしても、これから20年
そこそこの内に成った維新の時代を根底のところで産み出したのは幕府及び各藩そして朝廷、いや何よりも市井の侍、職人、商人、農民が鎖国政策の中で培う事が出来た日本人固有、独特の技術、文化といったものの力によるものであったろう、と考えた方がいいのではないでしょうか。

1846年6月9日の日記
長崎では異国船の来航(5艘)で上を下への騒動になっている。長崎警備を命じられている佐賀本藩の少将様(10代藩主直正公、(1815−1871))が長崎へ行かれる際に御通行なさる。
薩摩から帰って来た向かいの与兵衛によると琉球に異国船が3艘来たとの知らせで薩摩も大騒ぎになっている。

尚少将様と呼ばれる直正公は何度となく長崎へ出向いておられます。その任を通じて西洋の科学、技術を学ぶルートを作り、ほどなくして日本で初めて大砲や鉄砲の自藩製造に成功したり、不治の病とされていた天然痘のワクチンを日本で初めてオランダから輸入して自分の長男に試験したうえで一般に実施し、後の天然痘根絶につなげたりと日本の最先端を走る大名であられました。



同 6月13日の日記
10日のこと。異国船が3艘入港、さらに2艘見え、右の方から大砲を打ったそうで
佐賀藩の守備軍が応砲、すると合図と思って他藩のものまで一斉砲火、驚いた異国船は逃げ出して行方がわからなくなった。アヘン戦争で清国が敗戦して以来“異国船打払令”は取り下げられているので、御奉行から誰の指図で打ったのか調べがあった。しかし誰も
名乗る者がいなかったので、打ち方頭領原次郎兵衛が切腹した。他にももう一人切腹した由。異国船が放ったのは入港の際の礼砲のためであったようだが、そんなこととは知らず勘違いがあったようだ。

なんとも激しい責任の取り方であります。
“葉隠れ”の一節、“武士道と云うは死ぬことと見つけたり”が思わず思い出されてくるではありませんか。

 異国船にまつわる話が次に日記に登場するのは

1853年7月15日
いわゆる浦賀への黒船来航のニュースであります。
平兵衛さんは自藩蓮池藩のみならず隣藩鹿島藩にも多くの知己を得ていたようであります。
このニュースに対して幕府の防御がどうなっているのか気になっていたのでしょう。
というのは、余談になりますが

1850年8月28日の日記に
大砲を使っての実弾訓練が隣村から本応寺山に向かって行われていることが記されていますように、長崎へ異国船が来航するようになって長崎からは大分距離のあるこの塩田のような商業町でさえ防御体制を整えようとしていたからです。ちなみに平兵衛さんは弾丸の鋳型の材料である釉薬や干潟の手配、そしてそれらを練り合わせて鋳型を製造すること等に協力をしています。

さて、本論に戻って
この日、鹿島藩の江戸駐在からもたらされた聞書を鹿島在の知己が借りて持って来てくれました。恐らく人払いをしたうえで、息を整え、しかし昂奮を抑えきれない心地で見入っていたであろう姿を想像します。そこには
江戸の町の防御体制が記されています。即ち、
本部としての4大名及び湾岸に沿って布かれた浦賀から浦安までの7基地とそれぞれの
担当大名が記されています。

一方、黒船側の申し出は次の次第のようだと平兵衛さんは記しています。

“オランダから度々願ってきたことであるが、どうなっているのか分からないので、この度は北アメリカ合衆国の王(大統領)命を受けて、願いがあって使節として参りました。王の書簡は応対の者でなく直接将軍に渡したい”
と、このような申し出であります。
但し、まだ渡してはいないようである。

(こういう情報を日記に記せるということは、そのような人物を育んでいた塩田という町が歴史の舞台の一角に名を残すに値すると言えるのではないでしょうか)

この後翌年にはついに、アメリカ、イギリス、ロシアと和親条約を結び200年以上続いた鎖国の終焉を迎えています。

平兵衛さんが亡くなるのはこれから8年後の1858年でありますが、この後激変する
世情が記されることになるのかというと、全く逆で極めて平穏なものになっています。
異国の政府も商人も初めて開いた箱の中を観察するための時間が必要だったであろうし、国内にあっては次なる激動の時期、尊王とか攘夷運動に続く道へと踏み出したばかり
というか、暗中模索が始まったばかりだからということかもしれません。
たとえば、グラバー氏が長崎を拠点に武器、弾薬販売を通じて倒幕派を支援するのは
1861年以後です(和親条約から7年後)。

ここで一寸、平兵衛さんは俳句が趣味の文人でもありますので“文明と文化”というテーマについて寄り道しませんか。というのは
この時代は電気のない、だから勿論、電話もラジオもテレビもない文明、の歴史が
そろそろ終わりにさしかかっている時代だからです。不思議というか、そういうように、電気が灯る直前にモーツアルトやベートーベンは不朽の音楽をつくり、ミレー、セザンヌ、
ルノアール、モネ、ゴッホ、広重、北斎は不朽の絵画を制作していますね。
逆説、
つまり文明の進化は雑音を生産し、自己は侵され、無意識のうちにその文明に使われる
ようになってしまう、結果的に文化の進化にはむしろ反作用として働く、ということでしょうか。
平兵衛さんの日記を通して感じるのは日常、出来事、世界、自然界そして祈り、と共に
人は生きている事、そして藩、町、家族、のため / と共に、自身の力が活かされれば
有り難いと願っていること、等であります。
もとより商人である故に人を納得させる能力、楽しませる能力が大切で、俳句はそれに
ぴったりはまったのでしょう。
もう一度云いますが、塩田のような地方の町でさえ俳句の仲間が少なくなかったという
ことは、文化的には現在よりこの時代の方がはるかに高い水準にあったということかもしれません。
そうです、塩田に限ったことでなく世界中で文明の進化が文化の退化を招いてしまっているのではないでしょうか。
新聞やテレビからもたらされる情報は既に皆に渡されてしまっているものなので価値が
ありません。価値のある情報は昔の人達のように自分で集めるべきものなのでしょう。
新聞をやめて、テレビを消して生活してみると、時間がゆっくりと進んで行くことが良く分かります。余裕が生まれて周りが良く見えるようになります。

この散歩の間に歴史には学ぶことが多いと強く思い始めました。

1857年8月1日(亡くなる1年位前になりますが)の日記
久間村東山窯元の外尾善右衛門が訪ねて来て云うには、15年前廃山の危機にあった窯元を貴方様の力で再興して頂きました。その御恩を末世まで忘れないように窯元一同で詞を建てたい、とのことであった。それは過ぎたることと辞退していたのだが
(その後の日記で)ことはどんどん進んで9月16日には建立の儀式が行われ参列した
ということを書いています。詞は
筆、前田周助殿、石工、筒井新五郎殿により次の通りであった。
當山再興
     江口魯童之詞
      安政四年 九月
魯童は平兵衛さんの俳号であります。

時代はこの後間もなく薩長土肥出身の志士を中心として尊王攘夷運動(幕末の反体制運動)が起こり、1867年朝廷への大政奉還がなされたことで徳川幕府による封建時代が幕を閉じ明治時代へと移行、西洋文明の導入が急ピッチで進んで行きます。
鍋島藩では少将様(直正公)の先見の明と英断を伴った実行力によって他藩に先駆けて
近代化を推し進めてきていましたので動ずることなく時代の流れに乗っていくことが出来ました。

私見に過ぎませんが、明治及び大正は日本にとって初めての本格的な西洋との出会いでありましたが、それにも拘わらず、ほぼ完璧に付き合えたのではないでしょうか。

そのことは、それまでの日本の文明と文化が西洋のそれに匹敵するものであったことを
証明していることに他ならないと思えてきます。

余談
現代でさえ根底の所で西洋が東洋に対する優越感を示す瞬間が多々有りますが、歴史から学べることは“さにあらず”ということであります。
海外で過ごす時、どんな分野でも必ずといっていいくらいトップで活躍中の日本人に出会います。そんな時感じるのは、
個人個人が、自分は日本人を代表しているのだ、という立ち居振る舞いを示すことが大事だなということです。

さて、この頃より、与えられた問題を解く時代から問題そのものが有るか無いか分からない、ましてや方程式が有るのか分からない時代へ入って行きます。

殖産興業、富国強兵、日清戦争、日露戦争、半島、大陸への進出、ほぼ10年周期
で拡大を続けるならばやがて列強との激突が待っていることは誰にも予測出来る筈なのでありますが方程式が見つからない。
問題は、殊に昭和にはいってから議会勢力より軍部が優勢になって露骨にアジアでの覇権を目指す国に変質していったことです。
戦車も軍艦も戦闘機も弾薬も油も足りないのは分かっていただろうに、どうして
“行け行け、どんどん”になってしまったのか不思議としかいいようがありません。

この町塩田では敗戦後でもまだ戦争がしたいような雰囲気に包まれていて、子供たちの
遊びといえば、戦争ごっこかチャンバラでした。そしてこのような時代に大きな転換が
来るのは安保闘争(1960)の時です。地方の、岩より固い保守の町鹿島でさえデモ
行進が行われ、当時佐世保や板付基地でやりたい放題していたアメリカに対する怒りから、
“アメリカ ゴー ホーム”となった訳です。しかしこれはアメリカに対する抗議というより、人々が初めて封建時代に別れを告げたというか、民主主義に目覚めた時でした。
いわゆる多数決の原理です。
何時また始まるかもしれない朝鮮戦争、インドシナでの米ソ代理戦争などが懸念される中、黙っていると巻き込まれるかもしれない情勢だったので、それは困ると多数が主張し初めたのでした。
一方、この頃までには重化学工業が再興し、技術的には大型航空機以外殆どのものを国産しようとしていました。
鉄道網は整い、道路は舗装が進んだ結果、話は元に戻りますが、塩田川の運搬路としての役割は終わりを迎えました(1960年代)。
即ち、塩田津(港)は二度と戻ることのない歴史の瞬間を迎えたのでした。

前にも述べましたように、“L字型”に流路を変えながら有明海に向かうべき地点で、わざわざ”U字型”に迂回した形を持ったことで、有明海からの満ち潮によって川がプールのようになり、帆船の運航が可能で米、お茶、焼き物等の産業の発展と共に河港として繁栄してきましたが、汽車や自動車には勝てなかったというところでしょう。
そして港の役割がなくなると、“U字型”は欠点、つまり“大雨の際の洪水のもと”ということがより一層取り沙汰され、8代目愛二(私の父)は殊の外熱心に色々の図面を作って、“U字型”をやめる案を町に提案していました。
そこから数年後の1977年に改造成った“L字型”での進水式が執り行われ、奈良時代に編纂された「肥前国風土記」に潮高満川(しおたかみつるかわ----後になまって
“しおたがわ”)と記述のある満ち潮の来るのが見える川のイメージは消えて普通の土地の普通の塩田川になりました。
尚、“U字“の部分は小さな支流(小川)を受けるため残されていますが、小川と川の
マッチングは不自然で、川、つまり“U字“の部分は水の流れがないに等しく、淀んで
いてとても景観を害しています。浄化技術を使うか、川の大きさを小川にマッチング
させるか、何か手を加えないと町のプライドを損ねています。

さて、私としましては思いの外実りの多い第一回目の歴史散歩が出来ました。何よりも
勉強になりましたのは先人達が非常に外向き志向で生きていたということを知ったこと
かなと思っています。
ここ塩田の町だけでなく今地方の町から人通りが絶え、家は空っぽ、野良犬、野良猫さえ
居ない空虚な風景がそこあそこに展開されそうな事態がすぐそこまで迫ってきているのではないかと危惧するのは私だけでしょうか。
どうも地方が内向きになっているように思えてなりません。ですから、第二回目の散歩は塩田を取り巻く嬉野、鹿島、武雄まで広げてみようと思います。というのは、ここまで
衰退してしまったのでは一つの町の単独の力では再起は容易でないと思うからです。
どうでしょうか、これら三つの町のそれぞれの長所を繋ぎ合せて合同観光、合同産業の
ようなものをぶちあげるというのは。
要は同じ町の者同士で考えている限りそれ以上のアイデアは出て来ないもので、垣根を
取っ払って隣町の人とも一緒に考えようということです。
祐徳稲荷、有明海(不知火、ムツゴロウ、海苔、潮干狩り、等々)、酒造り、面浮立、
三船山、競輪、茶園、焼き物、温泉、ゴルフ場、伝統的建造物群、等々、
個々にでも魅力十分ですがたとえば季節毎にそれぞれを組み合わせると一層充実した
メニューになるでしょう。ターゲットは、
たとえば中国、韓国、台湾などがこの地域との古い歴史的な繋がりを現代に蘇らせると
いう意味を込めて面白いのではないでしょうか。

“伝統的建造物群保存地区”として認定されたことは先人達の活躍が顕著であったことを讃えられたものであり、後世にまで語り継ぐようにとの願望が国から寄せられたという事でありましょうが、願わくばそうした時代の活気までもが甦らせられないかと切に希望
したくなる次第であります。

それでは、平兵衛さんの俳句趣味にちなんで、江口家親類の句をいくつか寄せ書きして
本稿を閉じたいと存じます。


 人も蟻も雀も犬も原爆忌 
   七代 ツルばあさんの甥 藤松直哉氏(故人、俳号は“遊子”)

 春の虹 湖東三寺も あのあたり
   八代 愛二父の姪 添田雅子氏の御主人

 今日一日(ひとひ)秋の初風 心沁み
   八代 すまこ母の姪 岩永 淳子氏

 寒空や 満月冴える 佐賀平野
   八代 愛二父の三男 井上 米蔵氏

 佐賀から日本のやさしさを
   九代 スズコ姉の写真入り佐賀新聞一面広告のキャッチ(平成22年12月)

  そして最後になりますが、塩田町郷土史研究会会長を務めておられる
  中島 哲太郎氏の御母堂の詠歌を一首(氏は七代 江口平 の甥に当たられます)

 年毎に 汲みにし屠蘇を 手に乗せて
   皆幸あれと 祈る初春


それでは、またの機会まで御機嫌よう !!

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